長戸大幸 イズム’s blog

ビーイングミュージシャンに関する記事です。

三枝夕夏 IN db

以前にもお伝えしましたように、長戸大幸プロデューサーは様々なアーティストをプロデュースしてきており、特にミュージシャンに対して、バンド形体で音楽的なチャレンジをする機会を与えています。前回はスウェディッシュサウンドに傾倒したthe★tambourines、パンク系のサウンドに傾倒したOOMをご紹介しました。所属している男性ミュージシャン[亀井俊和さん(Dr.)、麻井寛史さん(Ba.)、大賀好修さん(G.)、大楠雄蔵さん(Key.) ]は、各々結成したバンドで専門店に特化した(特定の音楽ジャンルという意味)制作を遂行していきました。また、様々なアーティストのサポート・ミュージシャンとして今も活動しています。さらに前述の大賀好修さん、麻井寛史さん、大楠雄蔵さんと、車谷啓介さん(Dr.)の4人はインストゥルメンタル・バンドのSensationを結成、2012年7月に1st AL『Sensation』でデビューしました。今月はその車谷さんが所属していた三枝夕夏IN dbをご紹介します。果たして、彼らはどんなバンドだったのでしょうか?

 

三枝夕夏IN dbは、最初は三枝夕夏さん(Vo.)のソロ・プロジェクトとして2002年6月12日に1st Sg「Whenever I think of you」でデビューしました。三枝さんが作詞の際に選ぶ言葉には、映画の1シーンのような閃きがあります。例えば「海沿いのカフェ」での男女の様子や「ソーダ水」の使い方は、荒井由実さんの1974年の作品「海を見ていた午後」を彷彿とさせます。

また同年、「MAI-K & FRIENDS HOT ROD BEACH PARTY」というコンピレーションアルバムにも参加しました。このアルバムは倉木麻衣さんを始めとする当時GIZA所属のアーティストが、Beach Boys、Jan&Dean等、米国西海岸発祥のアーティストの楽曲カバーを収録したもので、三枝さんはJan&Deanの「SURF CITY」をカバーしました。その流れで逗子マリーナ、淡路夢舞台等全国5ヶ所でライヴ公演も行ない、彼女も出演しました。ちなみにマニピュレーターは、後に三枝夕夏IN dbのメンバーになった大藪拓さん(Ba.)が担当していました。

 

長戸プロデューサーは、アーティストに洋楽のカバーを真剣にやるように指示します。それは日本のポップス(Rock、R&B、Danceなど全て)は欧米の音楽シーンをリスペクトし、それに影響を受けて発展してきた背景があり、カバーをきちんと練習すると、メロディ、歌詞の意味、パフォーマンス等多々学ぶ所があるからです。

第二次世界大戦後、ラテン音楽がブームになると欧米や日本で流行りました。次にフランク・シナトラが大スターだった1950年代後半、エルビス・プレスリーの登場によって、それまで歌手を目指していた若者が、シナトラ(ジャズ)からプレスリー(ロック)に憧れをチェンジします。そうしてデビューしたのが、ポール・アンカニール・セダカ等で、彼らは60年代初頭の米国のヒットチャートに登場しました。

その頃、英国のリバプールに住んでいたBeatlesは、デビュー前に西ドイツ(当時)のハンブルグで演奏する機会を得ました。米軍基地の米兵がお客さんだったので、彼らは前述の米国60年代初頭のヒット曲を練習して、披露しました。それが後にBeatlesがヒット曲を量産出来るきっかけになったのです。以前にもご紹介した長戸プロデュース法[ヒット曲を書ける人はヒット曲を沢山知っている]というものです。そのBeatlesがデビューしてまず英国で人気が出て、間もなく米国音楽シーンも席巻しました。英国では彼らに続けと、The Rolling Stones、Kinks等数多くのバンドがデビュー、米国に進出して見事ヒットしました。このイギリスからの波をブリティッシュ・インヴェィジョンと言います。

米国ではBeatlesの対抗馬としてMonkeys等がデビューして大ヒット、日本ではグループサウンズというジャンルが大流行しました。またBeatlesが65年にリリースしたAL「ラバー・ソウル」に衝撃を受けたBeach Boysは、今までのサウンドを一変したAL『ペットサウンド』をリリースしました。一方Beatlesは、米国ツアー中にボブ・ディランの歌詞に衝撃を受け、それまでのラブソング中心から、哲学的な内容や人生、世界平和等を訴える歌詞になっていき、Beatlesはツアーを止めて、スタジオ録音で素晴らしい実験音楽を輩出していきました・・・。ここではその後は割愛しますが、影響を与え合う、というのは現代も続いています。

 

それからも三枝夕夏さんは洋楽のカバーに本格的に取り組む事で、さらに音楽を追求して行きました。翌年2003年3月、大阪にライヴハウス・ヒルズパン工場が完成し、三枝さんは初出演の5月8日を皮切りに、出演回数を重ねていきました。当時のヒルズパン工場は木曜日だけ営業しており、[Thursday Live]というイベントを開催していました。それはオリジナルではなく、主にカバーを披露するライヴで、“Rock Night”“R&B Night”“Blues Night”“Jazz Night”のようにジャンル分けされたタイトルがついていました。

三枝さんはショッキング・ブルー「VENUS」(オランダのアーティスト。この曲は多くのアーティストがカヴァー)、ステッペン・ウルフ「Born To Be Wild」(当時衝撃的だったロック)のようなバンド物から、マドンナの楽曲等を歌いました。その時にバンドで一緒に出演していたメンバーの中に、岩井勇一郎さん(G.)や、前述の車谷啓介さんが居ました。この一連のライヴのバンド・メンバーは全て、長戸プロデューサーが組み合わせ等も考慮して決めていました。

ライヴで意気投合した事もあって、この二人と前述の大藪さんを正式にメンバーとして加入させて、三枝夕夏IN dbは三枝さんのソロ・プロジェクトから4人のバンド編成にシフトしました。その流れで制作した楽曲が「君と約束した優しいあの場所まで」で、2003年10月に6枚目のシングルとしてリリースされました。バンドらしい疾走感溢れるアップテンポで、後半の演奏のキメが印象的なこの曲はオリコン週間チャートで初登場8位をマークし、一躍注目される事になりました。

 

彼らはオリジナル楽曲制作と並行して、洋楽のカバーの練習も欠かせませんでした。曲は、岩井さんと車谷さんが在籍していたバンド“NEW CINEMA 蜥蜴”時代に傾倒していたイギリスの音楽からも選ばれ、キンクス「You Really Got Me」等がありました。この曲は激しいリフが特徴で、10数年後にヴァン・ヘイレンがカバーし大ヒットする等、多くのアーティストにリスペクトされ続けています。三枝夕夏IN dbは翌年2004年9月に初のワンマンライヴを開催、翌年にはDVD『U-ka saegusa IN db [one 1 Live]』としてリリースされました。オリジナル曲はもちろん、カヴァーで演奏した前述の「VENUS」Born To Be Wild」「You Really Got Me」も収録されており、彼らのカバー楽曲に対するリスペクトと愛情が感じられます。

その後、彼らはどのような音楽制作をしていったのでしょうか?また近いうちに、メロディ、歌詞、サウンド等を取り上げますので、お楽しみに。

 the★tambourines & OOM

長戸大幸プロデューサーは様々なアーティストをプロデュースしてきました。特にミュージシャンに対して、バンド形体で音楽的なチャレンジをする機会を与えていく方法は画期的でした。


ビーイングからは1980年にマライア(MARIAH)がデビュー、メンバーには笹路正徳さん(Key.)、清水靖晃さん(Sax.)、土方隆行さん(Gt.)、渡辺モリオさん(Ba.)、山木秀夫さん(Dr.)、村川ジミー聡さん(Vo.)等、音楽史に爪痕を残し、今も各方面で活躍されている方々が在籍していました。プログレッシブ・ロック色の強かったマライアは自らのアルバムだけでなく、土方さんの『Smash The Grass』(フュージョン系)を始めとする数々のメンバー・ソロ名義の作品や、笹路さんがアレンジしたジャズ系の秋本奈緒美さんや作詞家の亜蘭知子さんの作品も含め、オールジャンルにおいて全てクオリティーが高く、アイドル全盛の80年代初期に衝撃を与え、音楽ファンを唸らせました。


長戸プロデューサー率いるビーイングには他にも沢山のミュージシャンが在籍しています。92年にデビューしたインストゥルメンタル・バンドのDIMENSIONも前述の方々同様ビーイングの精鋭、増崎孝司さん(G.)、勝田一樹さん(Sax.)、小野塚晃さん(Pf.)で結成、ジャンルの異なる音楽シーンでも活躍していた3人はフュージョンにジャンルを定め、現在まで25枚のオリジナルアルバムをリリース、多くのライヴも行なう等、今もハイペースで活動しています。また彼らはZARDを始めとする様々なアーティストのレコーディングに参加、さらに森川七月さん(from なついろ)のアルバムを始め、様々なアーティストのサウンド・プロデュースをしています。

長戸プロデューサーがバンドをプロデュースする場合、バンドが丸ごとプロダクションを訪れる形式よりも、このようにミュージシャン同士を組ませるパターンの方が多いです。そしてバンドの方向性を決めるにあたり、”まず専門店としてやっていく”というのがあります。例えばマライアならプログレッシブ・ロック、DIMENSIONならフュージョン、というような感じです。例えば、飲食店をやる時、看板を店の名前だけではなく、”和食””イタリアン””フレンチ”というように明確に打ち出した方が、通りがかった人にも分かりやすく、お店に入りやすい、というもの。
さらに、ミュージシャンに対しては、どんなジャンルの音楽にもチャレンジして精通するような姿勢が求められます。ロックもやればジャズもやる、というような事です。また演奏家としてだけではなく、例えば作詞・作曲・編曲家としても作品を残せるような取り組みも重要です。例えば、プロ野球で活躍しているトップレベルの選手は、アマチュア時代に”ピッチャー””ホームラン・バッター”を兼ねてきたマルチ・プレイヤーが多いです。

さて今世紀に入ってからも”専門店”のバンドがデビューして、音楽シーンに爪痕を残してきました。今回ご紹介するバンドは2つです。まず2001年4月「easy game」でデビューしたthe★tambourines(2009年に活動休止) 。松永安未さん(Vo.)中心の4人組のバンド。松永さんは、バンドの全作品の作詞を担当、シングルの表題曲以外の作曲も手がけています。ファッション・センスも卓越していました。結成前から亀井俊和さん(Dr.)は様々なアーティストのライヴサポートや、GARNET CROWの「二人のロケット」のレコーディング等に参加していました。また麻井寛史さん(Ba.)と共に愛内里菜さんのライヴサポートには初期の段階から参加していました。その麻井さんは、愛内さんデビューの前年に開催されたZARDの船上ライヴにも21歳で出演する等、経験を積んできました。レコーディング等のエンジニア、岡田達也さんは亀井さん、麻井さんと共に音楽制作をしてきました。


the★tambourinesは、スウェディッシュサウンド(90年代半ばにスウェーデントーレ・ヨハンソンがプロデュースしたThe Cardigansが元祖)に傾倒したサウンド作りをしました。松永さんがリスペクトしており、実際に声や雰囲気を活かしやすいジャンルでもありました。特に最新作の『switch』は多数のライヴ活動や作品作りをしてきた彼らの作品力、サウンド、ジャケット等、音楽の魅力の集大成になっています。
ちなみにスウェーデンは音楽輸出国として知られており、様々なジャンルにおいて良質な音楽を輩出してきました。70年代にアバ(ABBA)が米国を始め世界中で大ヒット、80年代には様々な北欧メタルのバンド、後半にはロクセット(Roxette)、90年代にはエイス・オブ・ベイス(Ace of Base)が音楽シーンを席巻しています。

2004年に結成したOOM(ウーム) (2009年に活動休止)は大賀好修さん(Gt.)を中心に、大楠雄蔵さん(Key.)、望月美玖さん(Vo.)の3人編成。大賀さんは結成までに95年から開始したRumble Fish、Steel and Glassやnothin’ but loveとしての活動や、ZARD倉木麻衣さん、愛内里菜さん、稲葉浩志さん(B’z)を始め様々なアーティストのライヴやレコーディングにギタリストやアレンジャーとして参加してきました。大楠さんも同様に結成までにZARD愛内里菜さん、三枝夕夏IN dbを始め様々なアーティストのライヴやレコーディングに参加、またhillsパン工場の初期に開催されていたTHURSDAY LIVE(洋楽カバー中心)に多数出演する等、様々なジャンルにも取り組んできました。


OOMは、望月さんの力強いヴォーカルを打ち出すべく、リスペクトしていた米国のラモーンズ(Ramones)等パンク系のサウンドに傾倒していきました。大賀さんの作曲は、あえて音域も広くないメロディラインにする事で、彼女のパワーを最大限に活かしました。CDデビューは2005年11月の1stミニアルバム「REVOLVER」ですが、それ以前からオリジナル作品、カバー曲を交えたライヴを重ねて、楽曲披露してリリースまでに改良していくという、正にバンドらしい柔軟な制作方針を貫きました。このデビューALには、特典DVDとして、2005年7月の愛内さんのライヴに参加した「里菜祭り2005」(大阪城野外音楽堂)、2005年9月に開催したOOM NIGHT(hillsパン工場)の模様を収めたDVDが付いている事からも、彼らの音楽に対する姿勢が伝わってきます。
この二つのバンドは現在活動休止ですが、彼らは今も様々なシーンで活動をしています。次号はさらにもう一つバンドを紹介して、今の音楽シーンに繋いでいきます。お楽しみに。

小松未歩

小松未歩さんは1997年5月28日に1st Sg「謎」でデビューしました。その年の12月に発売された「謎」を含む1st AL『謎』は50万枚を売り上げ、早くも存在感のあるアーティストとして始動していきました。そして翌年12月にリリースされた2nd AL『小松未歩 2nd ~未来~』は売り上げ枚数70万を記録しました。小松さんは今まで1度も音楽番組に出演して歌を披露した事はありません。しかし、多くの方の記憶に残る音楽を輩出し続けてきました。彼女は一体どの様にして音楽制作に挑んだのでしょうか?
大手航空会社勤務だった小松未歩さんは、音楽制作会社ビーイング系列のビーグラム大阪で行われた、中途採用の社員面接に訪れました。この時、プロデューサーの長戸大幸さんと出会います。長戸プロデューサーは、社員募集で来た彼女に、作曲をしてみるようにと勧めます。しかしそれまで彼女は作曲デモを作成した事はありませんでした。では何故、そんな小松さんにプロデューサーは作曲を勧めたのでしょうか?今回は特に作曲について取り上げます。

小松さんはカラオケで歌う事が好きでした。しかしそれは、当時のヒット曲、過去の大ヒット曲なら全て歌えるという、単なる趣味という領域を越えて特技ともいうべき領域に達していました。
プロデューサーの理論の1つに、“人間はインプットしたものしか、アウトプットしない”というのがあります。
もしもアナウンサーを志望するのであれば、標準語を話せる事が必須ですから、共通語(東京弁が元になった言葉)を離さない地域で育った人は特に、標準語を学び、訛りを取る必要があります。それは必ず標準語だけが口から出るよう慣れておく為です。一方アナウンサーは、標準語以外の色々な方言を習得する必要はありません。もしも学ぶ機会があって知っていたとしたら、その人はうっかり訛る可能性もあるわけです。でも標準語だけを学んでいれば、少なくとも生まれ育った地域以外の訛りは出て来ないはずです。
もしもヒット・メーカーになるなら、ヒット曲に詳しい事は必須です。小松未歩さんがヒット曲を沢山知っているというのは、知らず知らずのうちにヒット曲のツボ、例えば曲の展開、サビの出だし、琴線に触れる部分等も心得ている可能性があります。なので、彼女から生まれてくるメロディはヒット曲になるのではないか、という事です。

次にプロデューサーはデモを作る際にキーボード1本で作るように指示します。小松さんの最初に作られたデモは、96年8月26日に作られたもので、O-K-1(ギザでは小松さんの場合はKというように作家毎にデモ番号をつけています)、仮タイトルは「レイン」です。それは歌いながらキーボードを弾いているスタイルなのですが、なんとこの曲は指1本でキーボードを弾いているのです。しかし、歌のメロディとキーボードのライン、それだけで十分曲として成立しています。キーボードはベースラインのみという事でもありません。常に指1本だけなのに、メロディの間を縫うフレーズで、コード感や曲の最終形まで見えてくるかのようです。絵画でいうと簡単なデッサンなのに色彩や立体感も感じられるようなものです。このデモはプロデューサーの指示で1年後に小松さんが手直しして、結局「おとぎ話」という曲になり1stアルバム『謎』に収録されています。
プロデューサーの理論に、“作曲家は楽器が上手くない方がヒット曲をつくれる。”“楽器の上手い人は楽器が巧くならなければならない過程でヒット曲以外の曲をコピーしインプットしている。よって大衆音楽ではヒット曲を書く作曲家は楽器の下手な人の方が多い。”というのがあります。
もしも楽器を上手く弾けるようになりたかったら、段々難しい曲をコピーするようになっていき、そうした曲がインプットされていきます。それは超絶技巧の曲だったり、あるいはポピュラリティではない曲だったりします。すると作曲をする際に、覚えた難しい曲がうっかり出てくる恐れがあります。ヒット曲の醍醐味にあまり詳しくなれず、音楽の違う観点に詳しくなる、という事になります。もちろん、音楽家としては間違っていません。これはあくまでヒット曲を作る場合の話です。

こうして小松さんが作曲デモを作り始めて4ヵ月弱経った96年12月16日、30曲目のO-K-30、仮タイトル「夕映え」というデモが出来てきました。これにプロデューサーが直しの指示をして出来上がったのが8日後の24日。メロディとしてはこれで決定しました。既に歌詞にも「謎」という言葉が入っていました。これはテレビ用アニメ[名探偵コナン]オープニングテーマとしてプレゼンするものでしたので、[コナン]の内容も意識した「謎」という言葉が鍵となり、結局タイトルも「謎」になりました。
このデモのキーボードは指2~3本でした。プロデューサーはアレンジャーの古井弘人さん(Garnet Crow)に、鍵盤を沢山押さえて引く方式ではなく、デモのキーボードフレーズのコピーをするよう指示しました。ヴォーカル・トラックはダブる(2ch使う方式)事になりました。ビートルズジョン・レノンが必ずやっていた手法で、コーラス効果もあって声の押し出しも強くなります。

こうして試行錯誤しながら完成した「謎」はオリコン最高位9位を記録し、末永く愛されました。長戸プロデューサーの判断と導き方、小松さんの才能と努力が実を結んだと言えましょう。ちなみに余談ですが、「謎」のデモの直しの完成した時に彼女は、それ以外に4曲持ってきましたが、これらはどれも直し無しで製品になっています。2nd SgのC/W「傷あとをたどれば」、2nd AL『小松未歩 2nd ~未来~』収録の「未来」、3rd AL『小松未歩 3rd ~everywhere~』 収録の「夢と現実の狭間」、そして辻尾有紗さんの1st Sg「青い空に出逢えた」です。
もしも機会があれば、今一度小松未歩さんの作品を聴いてみて下さい。そこには多くの人を魅了する宝物が一杯詰まっているはずです。

Mi-Ke

音楽プロデューサー長戸大幸さんは1989年に新レーベル[Rhizome(リゾーム)]を立ち上げ、ブルース、R&BAOR等、大人の為の音楽を制作、発信していきました。そのレーベルから、TUBEを軸にした夏を売りにしたバンド[渚のオールスターズ]に参加していた、近藤房之介さん(Vo.&G)、坪倉唯子さん(Vo.)、栗林誠一郎さん(B.&Vo.)、増崎孝司さん([DIMENSION]のギタリスト)が次々とリリースしていきました。その彼らが母体となって1990年に結成されたのが、B.B.クィーンズです。そのB.B.クィーンズにコーラスで参加したのが、翌91年にシングル「思い出の九十九里浜」でデビューしたMi-Keです。今回は彼女たちがB.B.クイーンズに参加した経緯も含めてご紹介しましょう。

B.B.クィーンズのデビュー曲「おどるポンポコリン」は、フジテレビ系アニメ[ちびまる子ちゃん]のエンディングテーマとして、1990年4月4日に発売されました。しかし、番組自体は同年1月から放送開始しており、アニメ・タイアップ曲としては珍しく3ヵ月経ってからリリースされています。また発売日に向けた当初のCD店に流通させる枚数は8,000枚(当時のCD生産枚数では決して多くはないスタート)でした。しかし予約注文が増えていき発売後には徐々に売上を伸ばし、1990年のオリコンの年間シングル売り上げで1位を記録、同年の日本レコード大賞を受賞し、200万枚近く売り上げました。
90年代はビーイング長戸大幸プロデュース作品が沢山売れた事によって、CDバブル期を迎えましたが、「おどるポンポコリン」はまさにその起爆剤になりました。

B.B.クィーンズが音楽番組に出演したのも、彼らの音楽を知らしめたきっかけになりました。リリースから3ヵ月後の7月にはCDも非常に売れており、たくさんのテレビ出演オファーがありましたが、当初は全てお断りしていました。坪倉さんの歌をレコーディングの際にテープの回転数を下げて録音し、また戻してMIXする手法を取り入れていた為、音楽番組で歌ってもCD音源のような歌声で再現出来るのか未知数だったからです。しかし長戸プロデューサーは、坪倉さんがカラオケで「おどるポンポコリン」を歌った声を聴いて、テレビ出演のオファーを受ける決意をしました。音楽性を広げる為にキーボード奏者の望月衛介さんが参加してB.B.クィーンズは前述の4人から5人になっていました。さらにコーラスをやる女性を3人加入させる事になり、オーディションを開催し、宇徳敬子さん、村上遥さん、渡辺真美さんが選ばれました。さっそくリハーサルを行いましたが、彼女たちがテレビ出演する際には、手だけ動かして誰でも真似の出来る振り付けでコーラスをしてもらう事になりました。当初の名前は [B.Bクィーンズ シスターズよ]というものでした。彼女達の参加によって音楽番組でも好評になったB.Bクィーンズは、フジテレビ系の[夜のヒットスタジSUPER]やテレビ朝日系[ミュージックステーション]等や、年末の[NHK紅白歌合戦]に出演しました。
ビーイングは元々テレビ出演をしない、と言われていますが、そうではありません。長戸大幸プロデューサーのテレビというメディアに対する方針は、”向いているアーティストは出るチャンスがあれば出るべきで、向いていない人は出ない方が良い。”というものでした。オファーがあってなおかつ必要とあれば出演していたわけで、例えばB'zやTUBEはシングル・リリースのタイミングでは必ず歌番組に出演していましたし、ZARDも7回出演していました。ただし、テレビ番組というのは、同時に1,000万人の人が観ているわけで、失敗は禁物でした。その準備の為に金曜日に生放送の番組に出演する場合は、火曜日から歌入れのレコーディングを中止して喉を温存し、当日も午前中(特に新人の場合)からテレビ局のスタジオに入り、緊張感を保つ事になります。またトークもきちんとやらないとなりません。特に90年代からは歌番組でもトークの出来る人が良く見える時代に突入していました。
宇徳さん、村上さん、渡辺さんはB.B.クィーンズの制作、テレビ出演と同時に、Mi-Keを結成、「想い出の九十九里浜」の制作を進行させました。楽曲は60年代のG.S(グループ・サウンズ)を彷彿とさせる内容でした。60年代半ばから70年代初頭にかけてザ・タイガース沢田研二さん、岸部一徳さん等)、ザ・スパーダース(かまやつひろしさん、堺正章さん、井上順さん、大野克夫さん、井上尭之さん等)、ザ・テンプターズ萩原健一さん等)、ザ・サベージ(寺尾聰さん等)等、多くのグループが活躍していました。G.Sは、元々はイギリスのロック・バンドが世界的に流行した波が日本にもやってきて流行ったものでビートルズリバプールサウンドと呼ばれているグループや、ロンドンのローリング・ストーンズヤードバーズエリック・クラプトンジェフ・ベックジミー・ペイジ等が在籍)等に影響を受けていました。なので「想い出の九十九里浜」もノスタルジーな雰囲気はありますが、往年の昭和歌謡ではなく、ルーツにはロックがあるのです。
90年のファッション等は既に60年代後半のムーブメントは復活したかのようでしたが、サウンドに関してもプロデューサーから、”作曲は60年代後半のG.Sの良かったメロディを活かす、そして編曲、サウンドは60年代後半のままでは古過ぎるので、90年代のテイストで作るべき。”という指示がありました。ドラムの音色やリズム・パターン、グルーヴ、シンセやギター等全てを90年代の洋楽を意識して制作しました。「想い出の九十九里浜」の歌詞には、G.Sのヒット曲のタイトルが隠されていますので、探してみて下さい。
この曲でMi-Keは91年の日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞、盛んに活動していた93年秋までの2年半の間に11枚のシングルと7枚のオリジナル・アルバムをリリースしています。楽曲はオリジナル作品もありましたが、フォーク・ソング、リバプールサウンド、ロックンロール、60年代初頭のアメリカン・ポップス等、幅広いヒット曲をアルバム毎にカヴァーした内容でした。どれもが往年の楽曲に敬意を表しつつ、90年代のサウンドになっていました。

宇徳さんは94年からはシンガー・ソングライターとして活動していますが、Mi-Keで多くのヒット曲をカヴァーした事は、作曲をする上で大きな財産になっています。

音楽は再び活気づくのだろうか?

バブル経済が崩壊した後も、日本ではCDが売れ続けた時期が10年位続いた。その音楽には誰もが聴いて良いなと思える共通の概念があった。今世紀に入って、宇多田ヒカルが伸び悩んだ頃から、世の中の音楽ジャンルはどんどん細分化されて、その後音楽ファンは狭く深く聴くか、アイドル的に売れている物を聴くか、というスタイルになっていった。今聴き手は、再びアイドル枠ではない「共通の概念」を探し始めているように感じる。音楽は再び活気づくのだろうか?多くの人に有料で行き渡っていた頃の音楽に焦点をあてて考察し、今後どんな音楽が出て来るのかを占ってみたい。

音楽市場が活気のあった時代に、どこよりも良い音楽を作って届けていた集団、それが長戸大幸プロデューサー率いる音楽制作会社・ビーイングである。ビーイングは当時、彗星の如く音楽業界に現れたように見えたかもしれないが、表面的になぞるだけでは、これからの音楽シーンの行方を見極めることは難しいと思う。

長戸大幸氏の方針は、「存在し続ける」事だ。具体的にはどういう事なのか、以下に記してみると・・・

1)バンド・メンバーの選出はアマチュア時代に一緒にやっていた人とは限らない
2)オリジナル曲をやる前に、歌も楽器も徹底的にカバー曲の練習
3)オリジナルは良い曲・詞を最優先。必ずしもバンド・メンバーの曲ではない。
4)アーティストは本当の意味で賢い

これらを連載もののように書いてみたいと思う。

長戸大幸は数多くのアーティストをプロデュース

長戸大幸プロデューサーが1978年に立ち上げた「ビーイング」。今はレコード会社として流通の販売網も有するグループ会社なのだが、元々はシンプルで純粋な音楽制作集団だった。長戸大幸氏は作曲家・編曲家として第一線で活躍し、その後プロデューサーとして、B’z、TUBE、BOOWYLOUDNESSB.B.クィーンズMi-KeZARDT-BOLANWANDS大黒摩季DEENFIELD OF VIEW小松未歩倉木麻衣GARNET CROW愛内里菜など、数多くのアーティストをプロデュースし、デビューさせている。

またギタリストに関しても、布袋寅泰(ex. BOOWY)、高崎晃(LOUDESS)、北島健二土方隆行松本孝弘(B’z)、松川ラン敏也、増崎孝司(DIMENSION)、春畑道哉(TUBE)、五味孝氏(ex. T-BOLAN)、柴崎浩(ex. WANDS)、大賀好修(Sensation)等、日本の音楽シーンを支えたミュージシャンを数多く輩出している。ここに上げてない他のギタリストも皆秀逸である。


ギタリストの順番は、大体の関与した序列なのだが、あのB’z松本孝弘氏も当時はトップクラスでは無かったようで、それだけ長戸氏のもとには優秀でカッコいいギタリストが集まってきており、長戸大幸氏が彼らをさらに磨いて輩出していったのである。


長戸大幸氏が立ち上げたビーイング系譜をみると、音楽好きにはたまらない宝庫なのである。この真髄は今も脈々と受け継がれており、書き出したらキリが無い。これからもっと色々取り上げていきたいと思う。

長戸大幸を知る

長戸大幸 プロフィール
日本の音楽プロデューサーの草分け、パイオニア的存在。
1948年 4月6日生まれ。滋賀県大津市出身。
滋賀県膳所高校卒業、青山学院大学中退。
1978年 音楽制作会社(株)ビーイング設立。
現在、関連会社60社のオーナー。

【誕生からバンド活動期まで】

早くから洋楽に目覚め、エレキギターを始めた。ちょうどGS(グループ・サウンズの略。後述するザ・タイガース、カーナビーツや堺正章らが所属していたザ・スパイダース等多数が活躍)が流行っていた。
高校在学中よりバンド活動を開始。当時のメンバーには後のカーナビーツの2代目ボーカル・ポール岡田(70年代後半からはCMプロデューサー)、後にソニー洋楽ディレクターやフジパシフィック音楽出版役員を歴任した森下影夫らが居た。卒業後に組んだバンドの対バン相手には後のザ・タイガース沢田研二らが所属)等が居り、またその後のバンドでは、京都で開催されたジョン・メイヤー&ザ・ブルースブレイカーズのオープニング・アクトをドラマーとして務めた事もあった。

このように日本のロック黎明期にバンドをやっていた人物は、今も現役でアーティストやミュージシャン、作曲家として活動する者や、プロデューサーとして活躍している者も少なくない。その中でも特に長戸は異色の存在だった。
その後、GSブームが衰退すると、69年にフォーク・ロックバンド「赤と黒」を結成、長戸はリーダー、ボーカル、作詞&作曲を担当。同年テイチクレコードより「Mr.DJ」でデビューを果たした。
バンドはあまり売れず活動停止になり、長戸は東京を離れ、京都でブティックを開店、見事に成功した。
しかし長戸はあえて全てを捨てて、もう一度音楽をやる決心をして1975年に再び上京。吉田拓郎井上陽水泉谷しげる小室等らで設立したばかりのフォーライフレコードの第一回目のオーディションに合格した。その後阿久悠に作曲家として認められて、オフィス・トゥワンに所属、作曲家・編曲家として活動を開始した。

【音楽制作会社の立ち上げ】

長戸は、その頃からアーティストという表舞台よりも、プロデューサーや作曲家等、どちらかというと裏方的な、端的に言うとクリエイティブな存在志向が強くなっていた。作曲家として本格的にスタートした長戸は、すぐに和田アキ子舘ひろし等著名なアーティストの作曲・編曲を依頼されるようになる。
そしてポパイのテーマソングを当時大流行していたディスコサウンドでアレンジした「ポパイ・ザ・セーラーマン」(スピニッヂ・パワー)をプロデュースした。これはボーカリスト、ミュージシャン、作曲家、作詞家など様々な才能が集結したグループで、長戸は集まってきた若き精鋭を中心に、音楽制作者集団を立ち上げる事になる。
その発想が母体となって、長戸大幸は1978年11月、音楽制作会社・ビーイングを立ち上げた。