長戸大幸 イズム’s blog

ビーイングミュージシャンに関する記事です。

長戸大幸を知る

長戸大幸 プロフィール
日本の音楽プロデューサーの草分け、パイオニア的存在。
1948年 4月6日生まれ。滋賀県大津市出身。
滋賀県膳所高校卒業、青山学院大学中退。
1978年 音楽制作会社(株)ビーイング設立。
現在、関連会社60社のオーナー。

【誕生からバンド活動期まで】

早くから洋楽に目覚め、エレキギターを始めた。ちょうどGS(グループ・サウンズの略。後述するザ・タイガース、カーナビーツや堺正章らが所属していたザ・スパイダース等多数が活躍)が流行っていた。
高校在学中よりバンド活動を開始。当時のメンバーには後のカーナビーツの2代目ボーカル・ポール岡田(70年代後半からはCMプロデューサー)、後にソニー洋楽ディレクターやフジパシフィック音楽出版役員を歴任した森下影夫らが居た。卒業後に組んだバンドの対バン相手には後のザ・タイガース沢田研二らが所属)等が居り、またその後のバンドでは、京都で開催されたジョン・メイヤー&ザ・ブルースブレイカーズのオープニング・アクトをドラマーとして務めた事もあった。

このように日本のロック黎明期にバンドをやっていた人物は、今も現役でアーティストやミュージシャン、作曲家として活動する者や、プロデューサーとして活躍している者も少なくない。その中でも特に長戸は異色の存在だった。
その後、GSブームが衰退すると、69年にフォーク・ロックバンド「赤と黒」を結成、長戸はリーダー、ボーカル、作詞&作曲を担当。同年テイチクレコードより「Mr.DJ」でデビューを果たした。
バンドはあまり売れず活動停止になり、長戸は東京を離れ、京都でブティックを開店、見事に成功した。
しかし長戸はあえて全てを捨てて、もう一度音楽をやる決心をして1975年に再び上京。吉田拓郎井上陽水泉谷しげる小室等らで設立したばかりのフォーライフレコードの第一回目のオーディションに合格した。その後阿久悠に作曲家として認められて、オフィス・トゥワンに所属、作曲家・編曲家として活動を開始した。

【音楽制作会社の立ち上げ】

長戸は、その頃からアーティストという表舞台よりも、プロデューサーや作曲家等、どちらかというと裏方的な、端的に言うとクリエイティブな存在志向が強くなっていた。作曲家として本格的にスタートした長戸は、すぐに和田アキ子舘ひろし等著名なアーティストの作曲・編曲を依頼されるようになる。
そしてポパイのテーマソングを当時大流行していたディスコサウンドでアレンジした「ポパイ・ザ・セーラーマン」(スピニッヂ・パワー)をプロデュースした。これはボーカリスト、ミュージシャン、作曲家、作詞家など様々な才能が集結したグループで、長戸は集まってきた若き精鋭を中心に、音楽制作者集団を立ち上げる事になる。
その発想が母体となって、長戸大幸は1978年11月、音楽制作会社・ビーイングを立ち上げた。